vol.9 「健康病」狂躁曲
このホームページに、大学同級の松岡健平学兄が「あなたは何重奏?」という原稿を書いた。そこに、拙著「死の六重奏から逃れる」(ごま書房)を紹介してくれたのは有難いが、その御縁で、「医儒一如」というおかしな題の執筆依頼がきた。
考えてみれば、「医儒一如」は筆者の勝手な造語だから、おかしいはずだ。ついでにタイトルも、狂想曲ではなく、「狂躁曲」にした。「健康病」も筆者の造語である。「死の五重奏」、「死の六重奏」も筆者らの勝手な造語で、勝手な造語を使うのは科学の世界のタブーだが、なぜそのような言葉を使ったかを説明すれば、自然と「医儒一如」に辿り着くはずである。
(1)メタボリック・シンドロームへの疑問まえがきはここまでとして、筆者は、「メタボリック・シンドローム」(以下、メタボ)なる概念に大きな疑問をもっている。なぜメタボの概念に異を唱えるか、まず要約しておこう。
- 十分な論議がないままに診断基準(とくに腹囲)が決められ、諸外国の研究者から逆に「妥当な日本の基準」を示される現状。
- 特定健康診断にもメタボが組み込まれ、個人も、会社も、へそ周りの寸法で格付けがなされる奇妙さ。
- 心血管系の危険因子としてのメタボは、腹囲の取り方で危険因子とはならないこと。
- 生活習慣病としてのメタボに睡眠の項目がない。睡眠障害が、肥満と同じレベルの重要さで生活習慣病の原因になるというEBMがある。
- 30年間の長期リスク研究で、メタボの診断基準の各項目が単独で示す予後評価以上の情報を与えないという事実。
- 肥満や内臓脂肪蓄積でなくても、脂肪細胞の周囲にマクロファージ(炎症細胞)が集まるとインスリン抵抗性を起こす(肥満でなくてもメタボになる可能性!)。
- どの腹囲の基準も科学的根拠に乏しく、現時点では人々にメタボというレッテルを貼ってはならない(欧米諸学会・2007年)。
- メタボの概念が、国民をして健康ノイローゼに導き、「健康病」という新しい病気を創りだし、サプリメントだの、痩せる食品だのと、人間本来のあるべき姿勢を見失っていること
などなどである。
そこで、今後のメタボであるが、この制度(政策)が真に国民の疾病予防や健康増進に寄与すべく、ガイドラインの改善を含めて新たな方向に進路を変更されることを願っている。
(2)「死の五重奏」と「死の六重奏」松岡先生がすでに述べているが、内臓脂肪(蓄積)症候群から「死の五重奏」への概念の相違を、分かりやすく表示してみた(図1)。一見して理解できるように、「睡眠障害」を、互いに相関する危険因子として加えるかどうかである。すでに述べたように、肥満と同列の重要さで、生活習慣病の原因となることは、数々の研究が明らかにしている。

一例を、筆者ら(小野容明・太田保世)の研究にとれば、脳梗塞や心筋梗塞などの直接的原因になる血管内皮細胞傷害因子、血小板凝集能、平均血圧、糖代謝異常を示す血中インスリン濃度、ヘモグロビンA1Cなどが、閉塞型睡眠時無呼吸症候群(OSAHS:Obstructive Sleep Apnea Hypopnea Syndrome)の患者では、健常者に比べて有意に高く、n-CPAP(nasal Continuous Positive Airway Pressure:経鼻的持続陽圧呼吸療法)治療で正常化することが分かった。少ない症例であるが、減少していた脳血流も、n-CPAPで正常化することが観察された。塩見らの疫学的調査(Shiomi T et al: Hypertens Res 29:315,2006)では、メタボとOSAHSの合併率は、男性49.5%、女性32.0%であった。
ここで注意を喚起しておきたいのは、OSAHSのみならず、さまざまな形の睡眠障害にほぼ共通して、精神活動、日常生活での活動性(ADL)にも異常を来すことであり、さらに自動車事故や工場での事故発生などが、健常者に比べて、きわめて高い頻度で発生することである。つまり、図2に要約したように、睡眠障害は、疾病に伴う経済的損失、事故による賠償責任、失業、精神的なウツ傾向、子供の社会的不適応(登校拒否)、離婚といった負のスパイラルを形成することである。

近年、自殺の件数が増加の一途をたどっている。その自殺も、40歳から49歳の働き盛りでは、すでに死因の第二位であり、10歳〜14歳、50歳〜54歳では第三位を占めるに至っている。原因をたどっていけば、国の政策の貧困なども、その根底にあるだろうが、直接的動機を「警察白書」からみれば、第一位が病苦、第二位が精神障害やアルコール症、第三位が経済生活問題、第四位が家庭問題となっている。つまり、睡眠障害のスパイラルのどの部分も、自殺につながり得ることを示している。
現在、三大死因として、心筋梗塞などの心臓疾患、脳卒中、がんが挙げられているが、これに取って代わろうとしているのが、自殺と慢性閉塞性肺疾患(COPD)である。後者は、病苦という意味では同じだが、メタボに直接つながらない(そもそも肥満は少ない)。そこで、メタボとの関連で、警鐘を鳴らす意味で、「死の五重奏」に自殺を加えて「死の六重奏」としたのである。
(3)「健康病」環境問題がやかましく論ぜられている。それも、CO2など、温暖化ガスの規制が中心になっている。
たしかに、このまま進めば、海面の高さは80mも上昇し、人類の生活形態に大きな変化を余儀なくさせる。しかし、ここで考えなくてはならないことは、環境という言葉であって、水や大気などの環境は基本的大事であるが、それ以外に、社会環境、人間環境、あるいは食物環境などがあって、それらを総合的に考える必要があることである。たとえば、社会環境は「怖いもの」を変えてしまう。細かい説明をあえて省くが、昔から「地震・雷・火事・親父」と称せられたものは、江戸時代では「女衒(ぜげん)・雷・火事・遣り手」であり、第二次大戦中には「特高・赤紙・臨検・性病」であった。
現代ではどうか。「環境破壊・テロ・新型ウイルス・女房と子供」と、冗談とも真面目ともつかずに挙げてみた。
三大死因の原因は、おおづかみに、ライフスタイル(生活習慣)60%、環境因子20%、遺伝因子20%と言われてきた。しかし、広義の環境は疾病構造を変えてしまう。「健康病」もその例で、数ある「現代病」の一つである。
人生に大きな目的もなく、いたずらに健康や長寿にこだわり、マスコミの宣伝に乗り、インターネットなどの過剰な知識に溺れ、「健康」そのもののために心を痛める流行病である。そのような現代病は、さまざまなネーミングが可能で、慎むべきだが筆者が講演で使う造語には、「マスコミ病」、「IT病」(情報に乱され、智恵をもてない錯覚病)、「透明にブルー病」(了解不能の精神構造に基づく異常行動)、「先進国病」(現代管理社会における個々の人格の無視により、人間の精神の大量死)などである。
(4)「現代病」の原因現代病に限らず、現代の抱える多くの歪みを考えるとき、ぜひ一読を奨めたい本がある。畏敬する月尾嘉男先生の「縮小文明の展望―千年の彼方を目指して」(東京大学出版会)である。きわめて多くの視点から、地球の抱える問題点に迫っている。筆者は、先生の「縮小も素晴らしいことであるという思想を確立する必要がある」という文章だけを引用させていただく。
あらゆるものが、根底にもつべきフィロソフィー、あるいは共生という言葉に秘められた宗教心のようなものを忘れて拡大してしまったのである。その大きな原因は二十世紀の科学文明のあり方である。干潟龍祥先生や池田晶子さんなど、多くの人々が指摘する言葉を合成すれば、「近代科学の基礎は、われわれの理性だ。全体を知るための分析を行うのであって、分析的知性ではない。現代文明は、分析に分析を重ね、分けてみていった、その分けた通りが本当のものだと思い込んでいる。科学的専門主義の人は、バラバラになった知識の断片を、さてどうやってつなぎ合わせたものかと思いあぐねている。いつでも、分けない前の元に戻って考え直すことが大事である」ということになる。
分析的な、あるいは部分的に異常な科学の進歩が、知識の断片を大量に提供する。それを鵜呑みにした現代人は、あたかも自分の智恵が増えたような錯覚をおこしている。だから、マスコミの誤った報道にも引っかかる。ところが、人間の知性は、紀元前五世紀頃からほとんど進歩していないのである。
紀元前五世紀頃とは、釈尊、ソクラテス、孔子、第二イザヤ、ヒポクラテスなどを輩出した時代である。
難しいが、空間的に拡大してしまったことを縮小する思想も大切である。同時に、時間的に経過してしまった過去に戻って考えることも必要だろう。古人の智恵は計り知れないものがあり、現代だからこそ学ぶべきことが多いと筆者は考えるのである。それも、「死の五重奏」に自殺を加えて、心の問題も加味して「死の六重奏」とした理由なのである。
たとえば、食事の問題も、筆者は「肥らない・偏らない・塩分控え目・病気には治療食」の基本だけで十分だと、書いたり話をしている。高田好胤師の「空」、つまり「偏らない、拘らない、囚われない」を少し真似をしたのである。
肥満が重大な問題となった米国で、上院の調査委員会報告(マクガバン報告)が、「世界で最も理想的な食事は、元禄期以前の日本食」と結論したことも、時間を遡って、世界中の食事の調査をした結果である。それも、「精白しない五穀、季節の野菜、近海の小魚と海藻」という単純なものなのである。
(5)「逝きし世の面影」この小見出しは、渡辺京二氏の名著(平凡社)のタイトルである。幕末から開国直後に、外国から来訪した人々の眼に映った日本が、詳細に描かれている。私たちの先祖が、貧しくとも心豊かに、独自の文化を育んで来たことが知られる。立川昭二氏の「江戸人の生と死」(ちくま学芸文庫)には、「江戸人は人間の幸福を人生の後半に置き、若年の時代は晩年のための準備の時代と考えた」とある。
現代は「若さ」に絶対的な価値が与えられ、江戸人では老人に価値を置く文化があったとされる。この言葉は、まさに「現代病」、「健康病」の流行を考えるポイントになる。
若返りの食事や薬、アンチ・エイジングという医療分野の出現などである。この風潮を正しい道に戻すには、それを理解する基礎に、「生死観(死生観)」や「病に対する姿勢」のあり方にまで踏み込まなければならない。残念ながら、現代人に最も欠落した部分がこの部分なのである。この点を述べるには紙幅が制限されているので、前掲の「死の六重奏から逃れる」や、「凡夫凡婦のための生死観入門」(ごま書房)を参照していただきたい。
(6)「医食同源」テレビに「医食同源」という長寿番組がある。筆者も何回か出演したが、内容は食事には限らない。
ただ、最も人口に膾炙(かいしゃ)した言葉であろう。「薬食一如」も同じ言葉である。
古代中国の「黄帝内径(こうていだいけい)」や道教の教えのなかに、すでにその意味が述べられている。たとえば、道士・孫思貌(そんしげい)は、「身を安ずるの本は食に資(と)り、疾を救うの速やかなるは薬による」と、食と医療の意味を述べている。薬膳料理も一時ブームの観があったが、「財をなすには働き、働くには健康で、健康のためには食べること」が基本なのである。しかも、「薬も食事も同じで、毎日の食事で病気を治し、予防四肢、健康を保持増進し、不老長寿を得る」のが道教的考え方である。
そのような考え方は、多くの仏典(お経)に述べられている。そもそも医術は、巫術(ふじゅつ)と区別がつかない存在であったから、宗教の中に「健康」や「疾病」のことが表れるのは当然のことなのである。つまり、「医宗同源」であって、僧侶は医術にも長じていた。
仏教でいえば、釈尊が「粥の五徳」(律蔵)を述べ、「僧祇律(そうぎりつ)」には「粥有十利(しゅくゆうじり)」と、粥食の利点が述べられている。詳しくは拙著等を参照していただくとして、佛医経には「病気に罹る十因縁」、九横経(くおうきょう)には、横死する九つの原因が述べられている。そこには、「食うべからざる物を食べる時」、「食物の内容を知らずに食べる時」、「季節に逆らった食物を食べる時」など、日本人が外国旅行をして、不用意に飲食をすることを戒めるような言葉がある。
「法食一如(ほうじきいちにょ)」は、武田鏡村師のご著書に見つけた言葉である。「法」をダルマ・真理と考えれば、日常生活での佇(たたず)まいや食事の作法も、仏道修行と同じであるという意味に解釈して良いかと思う。
食事の作法や精神面の大切さを重視したのは道元禅師で、その著、「赴粥飯法(ふしゅくはんぽう)」は、「食事の仕方を通して、本当に人間らしい生き方を考えさせようとしたもの」(佐藤達全師)である。その序に引用された 維摩(ゆいま)居士の「もし能(よ)く食において等(とう)ならば、諸法もまた等なり。諸法等ならば、食においても等なり」は、食事から説き起こして、我執の戒め、すべてに我がものなしという諸法非我の精神にいたり、万物平等の思想にまで至る至言である。
ここでも詳しく解説するゆとりがないが、食事の前に唱えられる「五観の偈(げ)」は、現代の飽食の時代に対する重大な警告である。簡単に要約すれば、「いま目の前に供せられている食事が、どれだけ多くの手間や努力を経て来たかを考え、自分が正しい修行をして、その食事を食べるに相応しい人間かどうか自省する」ということから始まる、わずか五行の言葉である。
食料自給率が、先進国のなかではきわだって低い日本で、「健康病」に狂奔しながら、30%近くも無駄にするという現実は、日本人の精神性が失われた結果であるとしか思われない。
(7)「医儒一如」ここまで述べてきた「医食同源」、「医宗同源」、「法食一如」は、それぞれ共通した言葉であり、図示すれば図3のようになる。

「医儒一如」は、主として江戸時代の儒学者(朱子学なども一括して)や蘭学者たちが、残した「養生」という言葉の意味が重大であるために、便宜上、ひとまとめに勝手な言葉を創ったにすぎない。
丹波康頼の「医心方」は平安時代の著述で少し古いが、貝原益軒の「養生訓」、杉田玄白の「養生七不可」、横井也有の「健康十訓」などは江戸期のもので、それぞれに共通していることは、細分化された知識を述べるのではなく、人間全体の問題として、心の問題までを含んだ教えになっていることである。
一つだけ引用しておくと、横井也有の「健康十訓」は、
- 少肉多菜
- 少塩多酢
- 少糖多果
- 少食多嚼(しゅく)
- 少車多歩
- 少衣多浴
- 少煩多眠
- 少怒多笑
- 少欲多施
- 少言多行
の生活習慣を奨める。運動から衣類、精神状態、睡眠など、総合的に捉えているのである。
さらに近代になれば、日本有数の思想家であった安岡正篤(まさひろ)先生は、十五条からなる「日用心法」を示しているが、「養生とは養心である」という言葉が印象的で、「日用心法」には、仕事(天職)、人生の目的、信念・信仰・哲学をもっているか、までを問いかける。
このように、日本人は、分析的科学の断片にとらわれず、睡眠、食事、運動、精神状態、そして生きる理念までを総合的に捉え、個の全体を考えてきたと述べれば、現代の「狂躁曲」の誤りが明確に理解されよう。
(8)「自然法爾」脈絡にも乏しく、また詳しい説明もせずに、先人の美々しい言葉をならべてきたが、さて筆者本人の「日用心法」は如何に?という担当者からの質問がある。困ったことである。観念で理解したことは身についていないからである。ただ、中学時代に習った言葉をいまだに忘れずにいる。御仏の心は?という質問に、勢至菩薩と観世音菩薩の両脇侍に挟まれて、その中間に「まっすぐ素直に佇まれるお姿そのものである」と法然上人が申されたということで、後年、親鸞聖人の「自然法爾(じねんほうに)」という言葉がそれと同じであると理解した。
あるがままに、真理のままに生きると言うことではないだろうか。
![]()
【太田 保世】
| 1961年 3月 | 慶應義塾大学医学部卒業 |
| 1963年 6月〜12月 | 北海道大学応用電気研究所留学 |
| 1966年 3月 | 慶應義塾大学院医学研究科修了(医学博士) |
| <<職歴>> | |
| 1966年 4月 | 慶應義塾大学呼吸循環内科・助手 |
| 1970年 6月〜1972年 8月 | ニューヨーク州立大学バッファロー校 生理学教室・研究助教授 |
| 1974年 7月 | 東海大学医学部助教授(生理学教室) |
| 1983年 4月〜2000年 3月 | 東海大学教授(呼吸器内科学) |
| 1989年 4月〜1995年 3月 | 東海大学医学部付属病院副院長・兼務 |
| 1995年 4月〜2000年 3月 | 東海大学保健管理センター所長・兼務 |
| 1997年 6月 | 財団法人太田綜合病院・副理事長(兼務) |
| 2000年 4月 | 東海大学退職(名誉教授就任) 財団法人太田綜合病院・附属太田西ノ内病院長 |
| 2001年 6月 | 財団法人太田綜合病院・理事長 |
| <<学会等>> | |
|
|
| <<現在の公職等>> | |
|
|
| <<趣味等>> | |
| 読書・もの書き・海釣り・ジャズ鑑賞(評論) 労働基準局潜水士免許・二級船舶操縦士免許 |
|
| <<著書等>> | |
| 呼吸機能検査(中外医学社)、呼吸器病学(中外医学社)、呼吸生理学 入門(MEDSI 社)、日本人の睡眠呼吸障害(東海大出版会)、内科学(朝倉書店)、内科学書(中山書店)、呼吸器病学(医学書院 MYW)、「老いの構図」(東海大出版会)、「続・老いの構図」(東海大出版会)、「風のこころ」(東海大学出版会)、「長寿考」(東海大学出版会)、「会津史の源流を探る」(歴史春秋社)、「流謫の波頭」(牧野出版)、「日本の屈折点」(ごま書房)、「八百比丘尼伝説」(歴史研究社)、「凡夫凡婦のための生死観入門」(ごま書房)、「死の六重奏を逃れる」(ごま書房)ほか. | |

